3年生時代 その⑭ おじいちゃん(2)

運動会当日は、数日前の天気予報が見事に外れて、一日中ぴかぴか・きらきらの「大晴れ」でした。 「きらきらの」と言って思い出すのは、この年の運動会の晴天、そして、その一週間後に亡くなった父の、最後の笑顔です。

  一般病棟の個室に移ってしばらくは落ち着いていた父でしたが、一週間経った頃にまた心筋梗塞の発作が起こり、痛みも出て本当に辛そうな時間がありました。でもその日の夕方近く、不思議なことに痛みはすーっと消えて、父はようやく眠り、私達家族もほっとしてベッドの側に腰掛けました。
  私もちょっと疲れを感じたので、父のベッドの脇に取り付けてある、転落防止の柵の外側の、5センチほどのスペースに額だけ乗せて休んでいました。夫がそれを見て柵を外してくれたので、私は父の腕にくっつくところまで頭を侵入させました。そこにあった父の腕に、ふと触ってみるととても温かいのです。 「あったかいってありがたいなあ」と、次の日に逝ってしまうなんてまさか思ってはいなかったはずですが、その時はなぜか、父の腕の温かみがとても嬉しく、少し甘えた気持ちにもなって、そして力を抜いた途端に眠ってしまいました。

 どれくらい眠ったのか、気がついて顔をあげると、父が私を見ています。 痛みも無いようで、とても穏やかな顔をしています。
 「大丈夫ですか?」と聞くと「うん」と頷き、子供の様な顔できょろきょろと部屋の中を見回しています。 子リスはちょっと離れた椅子に座って、ポケモン図鑑を読んでいます。その傍らには学校の宿題の「生活ノート」(作文帳)。ふと、子リスの作文を父に読んで聞かせようと、思いつきました。
 父は、兄と私が小学校から大学までずっと、作文の先生でした。どんなに忙しい時でも、兄や私が作文に取り組んでいると、「どれ」と言って必ず書いたものを点検し、時には朝までかかって添削させたりもしました。教わっている方としては、『もういいのになぁ…』と実は思ったりしていましたが、でもそのおかげで、文章を書かなければならない時に、あまり抵抗なく出来るようにはなったと思います。とにかく、作文は、私達にとっては特別なものでした。
 子リスの作文は、それまで父に見せる機会がありませんでした。これを読んで聞かせたら父はきっと喜ぶだろうと思ったし、子リスの作文には、つたないながらも学校生活が描かれていて、それを(学校でちゃんと色々なことをやっているということを)知って安心して欲しいとも思いました。

子リス「生活ノート」より
 「今日の三時間目に総合をやりました。やった事はかだい見つけで、何かをしらべる事です。ぼくはもみじについてしらべました。まず、紅葉のふしぎという本でしらべました。その本には、もみじの一年間の色がのっていたので、その事を書きました。次に植物の図かんでしらべました。その本には、色の色素の事が書いてあって、そこを読んだら少しおもしろいと思いました。それから少しほかの本をさがしました。さがしているうちにあつめる時間になって紙をあつめました。ぼくは、あつめる時に紙を見て、前よりたくさん書けたと思いました。また、総合をやりたいです。」

  「ぼくは、一学期をすごしてたのしかった事は、休み時間に友だちと遊んだことです。一年生、二年生のころは、あまり遊ばなかったのでうれしかったです。ぼくは、よく休み時間に鬼ごっこやどろけいをやりました。友だちと遊ぶと、楽しくなります。三年生になってから友だちと遊ぶのが前より楽しくなりました。また二学期も遊びたいです。」
・・・・・・・・・
 父は終始にこにこと聞いていて、私が読み終わると「大したもんだなあ」と言いました。それから母、夫、私、子リスを見て、にっこりと笑いました。 その顔が、今なお鮮明に蘇る、きらきらの笑顔だったのです。後にも先にも、あれほどきれいな誰かの笑顔を私は見たことがありません。あまりにもきれいだったので、私はハッとして思わず夫を見ると、夫も同じようにびっくりした表情で、私達はしばらく顔を見合わせていました。

 父の状態も落ち着き、時間も遅くなっていたので、私達はまた母の家に帰ることにしました。 病室の外の廊下に出たところで、子リスのリュックの留め具が外れていることに気付いた私が、 「ほら、ここちゃんと留めて。」と言うと、子リスが 「あ、そっか。」と言いながらカチッと留め具を締め直しました。 私は、この音や子リスの声が父に聞こえていることを思いながら、病院を後にしました。

  翌朝目が覚めると、穏やかな晴天が広がっていました。母は、「本当に、何か月振りかでぐっすり寝たわ~」と言い、夫と子リスは、「おじいちゃんの容態も落ち着いたから大丈夫だね」と言って、出かけて行きました。みんなが安心して、一息ついた、そんな朝でした。
 私もゆっくりと支度して、さあそろそろ病院に出かけようか…と思っていた時に、ナースセンターから「容態が急変しましたのですぐ来て下さい」と電話が入ったのです。 急いで夫と子リスに電話をして二人を呼び戻し、私より一足先に出ていた母を途中で捕まえて、病院までの道を二人で全速力で走りましたが、私達が着いた時には父はもう逝ってしまっていました。
  担当の看護師さんが、「朝、『おはようございます』ってご挨拶して、カーテンを開けて振り返ったら、もう…。こんなに静かに逝かれるなんて、よほど徳をつまれた方なのかなあと思いましたよ」と言って下さいました。

  夫と共に病室に入ってきた子リスは、目を伏せて、ベッドの上のおじいちゃんを見ないようにしながら壁伝いに歩いて、そして窓際まで行きました。どうするのかと思ったら、空に向かってお祈りをしているのです。 幼稚園時代(教会幼稚園でした)は、お祈りの時間に一度も、お祈りは疎か手を組んだことすらなかったのに、しっかり手を組んで、目をつむって、一生懸命お祈りしています。
  後から、「あの時何をお祈りしたの?」と聞いてみると、「おじいちゃんが、天国で幸せでいますようにって。」
 子リスのことをいつも思っていてくれた父、そして、私達家族がみんな大好きだった父はお空へいってしまいました。でも、最後の晩にに子リスの声を聞いて眠った父は、微笑みながら旅立ったのではないかと思っています。

 ところで父が亡くなる前日、主治医の先生が、「あと数か月、ということで覚悟していただいた方がいいと思います。」「でも、ここ数日とか、数週間とか、そういうことではありませんから安心してください」 とおっしゃっていたので、私達はすっかり気を抜いていました。まさかその翌日に逝ってしまうなんて、私達にしてみれば、(父に)「やられた!」というタイミングです。
 後になって考えると、全てが父らしい死に方だったと思います。
 家族の誰もが予期しない時、誰もそばにいない時を狙って逝ったこと。
 もう少し生きられたのに、というところで逝ったこと。
 そしてあの日、やっぱり柔らかな、温かい風が漂うきれいな晴天だったことも。

 父が「今日は逝かないと思っただろう?」と悪戯っぽく言っている様子が目に浮かびます。生前の、父の美学の一つだった、「何事も、もう少し欲しいなあ、というところでやめておくのがいいんだよ。」とも。

 生きていた時からどこか風のように飄々とした父でしたが、本当に風になったおじいちゃんに見守ってもらいながら、これから頑張っていこうね、と、心の中で子リスに言いました。

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